パラリンピック女子射撃選手で東京2020の委員などもつとめている田口亜希選手。
どのような経歴の持ち主なんでしょうか?
プロフィールや結婚して子供はいるか?などプライベートなことも調べてみました。
田口亜希のプロフィール
生年月日 1971年3月12日 |
出身地 大阪市生まれ |
卒業後 郵船クルーズ株式会社に入社 |
25歳のときに、脊髄の血管の病気で車いす生活になる |
きっかけ リハビリ中に出会った友人の勧めで小型のライフルに出会う |
大会成績 パラリンピックへの出場はアテネ・北京・ロンドンの3大会連続出場 |
国内大会では両競技ともランキング1位 |
2011年IPCワールドカップではフリーライフルにて587点をマークし6位入賞 |
世界ランキング7位(2012年) |
会社 郵船クルーズ株式会社勤務 |
- 2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員
- ブランドアドバイザリーグループのメンバー
- 東京2020エンブレム委員会委員
- 東京2020大会マスコット選考検討会議委員
などの役職を務める田口亜希選手は、日本の女子射撃選手です。
追手門学院大手前中学校・高等学校を卒業後、郵船クルーズ株式会社に入社し、旅客船「飛鳥」の乗員として世界中を航海していましたが、休暇中の25歳のときに脊髄の血管の病気を発症し、車いす生活になった時、リハビリ中に出会った友人の勧めで、小型ライフルに出会いました。
射撃競技には「ライフル」と「ピストル」の2つがあり、田口亜希選手の場合はこのライフル競技をやっています。
種目でいうと「伏射」という、伏せて銃を構える打ち方で、健常者の方は床に伏せて撃ったりすることができますが、田口亜希選手の場合は床に伏せて撃つことができないので、テーブルを置いて撃つかたちになります。
射撃場は、選手の撃っている上にスクリーンがあり、そのスクリーンにどこに撃ったかとか、合計点数などが表示される仕組みになっています。
ですが、射撃場は静かで応援の人は声が出せず、1点落としただけでも結果が左右されるので、見る人はあんまり楽しくないみたいで、田口亜希選手の家族は見ていてドキドキすると言っているそうです。
田口亜希選手のやっているエアライフルでは60発撃ちますが、60発全部10点圏に当てないとファイナルにも残れないスポーツで、射撃はすごく精神的な勝負だということがわかりますよね。
田口亜希の経歴がすごい!
(PyeongChang to Tokyoより https://tokyo2020.org/jp/special/pyeongchang-to-tokyo/)
田口亜希選手は、25歳のときに病気で足を悪くしてからリハビリ専門の病院に入って、「車椅子でもできる競技ってなんだろう」という話をしていた時に「射撃もあるよ」と教えてもらったそうです。
その後、ある人からビームライフル(光線銃)に誘われて、初めて銃を持ったときには、パラリンピック出場とか全然考えていなくて、仕事をやりながら趣味として何かやりたいなと思って始められました。
そして、初めてビームライフルの試合に出場したときに、なんとビギナーズラックで優勝し、それが2回くらい続いて、当時のコーチに「銃刀法の許可を持って、実弾の射撃をやってみないか」と誘われたそうです。
射撃も最初はただ誘われたからやっていただけでしたが、どんどん試合に出るようになったある時、監督に「このままいったら、2年後のパラリンピックにでられるかもしれないよ」と言われたそうです。
そこで初めて「2年後か。それなら次のワールドカップでこれをとって、何ヶ月後には…」と目標を立てていて、その時、自分が2年も先のことを考えていることにびっくりしたそうです。
田口亜希選手の大会成績は、
- 2004年アテネパラリンピック
- 2008年北京パラリンピック
- 2012年ロンドンパラリンピック
と、3大会連続出場し、アテネでは7位、北京では8位入賞するといった好成績を収めています。
また、2010年アジアパラ競技大会では3位で銅メダルとなりました。
田口亜希は結婚して旦那や子供はいる?
(challengers.TVより https://www.challengers.tv/photo/1102012/1796.html)
田口亜希選手は、旧姓:寺井亜希というそうで、結婚はされているようです。
ですが、子供がいるという情報まではありませんでした。
障害者にも先天性とか後天性などがありますが、田口亜希選手のように途中から障害者になった者は、それまで自分でできていた事が、いきなり何もできなくなってしまいます。
腹筋がないから、最初はベッドから起き上がることもできないし、ごはんを食べていてお箸を落としたらそれも拾えない。
自分がそうなった時「先のことを考えるのをやめよう」と思ったそうです。
田口亜希選手は、先のことを考えると「私には未来がないと思ったし、自分の1年後を考えるのが怖かった、だから今日何をするか、目の前のことだけを考えよう」と思っていたと語っています。
仕事としてアスリートをやっていくのも、ひとつの方法だと思いますが「メダルをとりたい」「有名になりたい」と思っている人もいると思います。
パラリンピックを観ている人の中には“障害を見世物にして”という人もいるかもしれません。
アスリートの立場で言わせてもらうと、別に「この人は障害を乗り越えてやっている」と思ってほしいわけではなく、ただ単にみんなと同じようにスポーツが好きで、好きなことをやって上を目指しているとわかってもらいたいと田口亜希選手は、話しておられました。
パラリンピックの父と言われている、イギリスのルートヴィヒ・グットマン博士の言葉に「失くしたものを数えるな、残されたものを最大限に活かせ」というものがあります。
別にこれをいつも思っているわけじゃないですが、後ろを振り返るのではなく前を向いていくのは大切だと思うそうで、生活していて不便なこともありますが、車椅子に乗っていて、子供なんかが無邪気に触ろうとするとお母さんは「やめなさい」っていいますが、反対に興味を持ってもらって、みんなで一緒に楽しい世界を作ることを考えてくれたらいいのではないかなと考えているそうです。
この話より、田口亜希選手は、車いす生活になってしまったことをマイナスにとらえず、前を向いて大好きなスポーツの世界で上を目指して活躍していることがわかりますよね。
練習は、近隣に射撃場がなく、仕事のある平日はほとんど練習できないので、自宅でイメージトレーニングなどを行い、週末に千葉などの射撃場に出かけているそうです。
しかし、土日に出航がある場合はお見送りに立ち会うため、毎週練習ができるというわけではありません。
世界のライバルは「プロ」として平日に自宅や近隣の射撃場で練習を積んでいるので、そういったほかの選手と比べると練習量が少なく感じますが、それ以上に、「仕事があるから射撃が楽しい」とも感じることがあるようです。
田口亜希は常に全力
射撃は孤独な世界ですが、仕事はお客さまや仲間と会話を交わすことで、気持ちが明るくなるので、競技で辛いことがあっても乗り越えられるそうです。
仕事と競技、どちらも全力で取り組んでいる選手なんですね。
コメント
田口亜希さん
NHKラジオ深夜便で聴きました
健常者だった田口さんが急に骨髄の病気を発症して、車いす生活になった。これは気持ちの置き場がなくなって大変だったと思います。(言葉では言い表せませんが・・・)
苦しいリハビリで訓練をして、仲間の助けもあったでしょうが新しい職場に勤められて、さらには射撃と出会い今では世界を代表するアスリートになり、活躍されていることが素晴らしいと思いました。
私は健常者ですが、私の勤めている会社には6名の障碍者がいます(聴覚障害者4名、車いす2名)
皆明るいんですよね。つい我々は障碍者に対して特別扱いをしてしまいますが、そうではなく一人の人間として接して、お互いに困ったことがあったら助け合う、これが人間同士の生き方だと思います。
いま私は、和太鼓をやっていますが、健常者だけではなく障害の方も参加いていただいて太鼓を楽しんで頂きたいと思います。
田口さんをはじめ、障碍者のアスリートを応援いたします。